論理という退屈

暇だ。完全に暇だ。YouTubeも面白くない。やることもない。厳密にはある。が、もうシコるしかなかった。それももう終わってしまった。虚無だ。この遊びの欠点は、やってみるまでは気持ちがさぞいいことだろうと思うからその欲求が非常に高ぶっているのに、いざ始めてみると大して気持ちのよいわけでもないのに途中で終わることもできないからただただ惰性で過ごす時間に成り代わってしまうという点だ。結局おもんない。あと今風邪気味だからたぶんやんないほうがよかった。最悪。

というか、もうこの際ここで論じてしまうのだが、もう厳密性だとか頑健な論理性を文章にもちこむのはやめにしたい。それ自体は全く俺の書きたいところではないからだ。それに、その長々と連ねた論理性とやらは、大体の場合読者が推し量れるレベルであることが往々にしてある。省いて問題がない。というか、論理性というものはある程度再現性が利くものであるから、読者が私と同じくらいの思考レベルを持ち合わせているなら書く方が邪魔にも思える。一々書かなくても勝手に補足してくれるからだ。読者が。そして、再現性が利かない要素がまさに経験や感想の類である。他人の文章の面白さというのは、その人物がいかにこの世界を捉えているかというところにある。全くもって私たちはディベートをするために本を読むわけではないのだから、一つの抜けもない完璧な論理構造の下に導かれた平凡な意見を聞くより、彼にしかたどり着けない答えを短くスパッと教えてくれる方が面白いに決まっている。冗長とはまさにこういうことだ。私の意見はかくかくしかじかで、その背景にはこれがあって、これを仮定すると、こうこうこういう仮説が立てられて、それへの反論としてはこういうものが挙げられて、しかしそれはこういう理由から棄却出来て、うんぬんかんぬん……。もう見るに値しないだろう。他人が講釈を垂れている時間というのは本当に退屈に感じるものだが、それはそこに主体性が存在しないからだ。疑問を感じる隙間がない。最初はふつふつ湧いてくるそれらも、全くこちらの関知しないどうでもよい反論にむきになっている様子をまざまざと見せつけられたらどうも冷めてしまうのが世の常だ。私の友達も言っていた。余白のない男はエロくないと。ダセェ話ばっかしてんじゃなくてさ、お前だけが感じられるものを言ってみろよってんだ。授業参観じゃねんだからよ。あぁ、○○くんは今日も完璧な論理構成で意見を言えているのね~、じゃねぇんだよ。ンなやついねぇから。いたらきめぇ。わかったらやめろ。以上。

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