はじめに:利他的思考とメンヘラ
「情けは人の為ならず」という言葉がある。誤用されがちなこのことわざの中身としては「ほかの誰でもなく、“自分”のために他人へ手を差し伸べるのだ」という一見利己的な思想を掲げるものである。利己的と聞いたとき、多くの人はしかめた面をするだろう。この社会においては、他人を助けることが美徳とされ、推進されている。それもそのはず、社会というのは個の集まりで形成されるものなのだから、そのつながりが脆弱なようではその社会構造自体が脆いといっても過言ではないからだ。幸いなことに、日本ではこのような助け合いの精神が国民に広く浸透しているためか、国際化した現代社会においては「これがジャパニーズヤマトダマシイだ」とか言われることも少なからずあるところだ。全く誇らしい限りである。このことわざの本当の意味が理解されづらいのも頷けるだろうか。今回の話は、自身の体験を元に、恋人という関係における“見返りを求める行為”の是非について議論していきたい。利他的思考が染みついている人ほど、メンヘラへの入口は開かれている。
自覚症状
彼女のために筋トレを始めた。彼女のために部屋を飾り付けた。彼女のために家具を揃え、彼女のために生活を変えた。私は当初、これが彼女のことを思っての行為だと信じて疑わなかった。実際は全くの逆だ。私は私のことしか見ていなかったというのに。それに気づいたのはついさっきのことだ。今日は彼女と遊ぶ予定のはずだったが、それが明日にずれた。些細な事情があって起きたことである。私は楽しみにしていた分少し悲しかったが、彼女は睡眠時間が取れるといって、そこに残念がるような様子はなかった。別に彼女が悪いというわけではない。彼女は仕事で疲れがひどい。それに明日遊べるじゃないか。なにも問題はないはずだった。ただ、気づいてしまった。私と彼女との間にある“熱”のギャップに。私はとっても熱い。俗にいう“重さ”を多分に孕んでしまうほどに。対して彼女は幾分かクールだ。どっちが悪いとかじゃない。そんなこと関係なく私は彼女のことが好きだし、それにその“熱”の差は今だけの問題だ。そうではない。問題はそこではない。問題は、私は彼女のためを思って行動してきたはずだったのに、なぜか今、「俺はこんなに彼女のことを考えているのにな」と、そういう攻撃的で身勝手な思考が浮かんできたしまったことにある。そう、つまりは、結局のところ、俺は俺のために、見返りを求めて行為を遂行してきていたというわけだ。愛されたいと、俺を求めてほしいと思って。その感情について言えば、私が私自身を責められるわけはない。ただ、改めて少し悲しくなった。純愛だと信じていた私の恋心にも、やはり血の通った醜さが溶け込んでいたのだな、と。よく言われるような「メンヘラ」の類に私も分類されるのだろう。相手への愛情がむしろ攻撃性を伴って相手に襲い掛かる。こんな理不尽な事象が起きてよいのかと、今までは他人事のように感じてきた手前、今とても恥ずかしい上に自分が恐ろしい。ただ、これもまだ小規模な感情の荒れ具合に収まっているということは不幸中の幸いである。メンヘラ要素が自身に内在しているということを知覚できたことをまずは称賛してあげることにして、私の思考について理解をより深めていきたいと思う。
メンヘラ思考からひも解く恋愛論
恋人同士が肝に銘じておくべき価値観として「互いを尊重する」というものがある。以前の私は、自己犠牲的に、彼女にさえメリットがあるならば私にはいくらでも負担があってよいと考えていた。次第にその負担が彼女に対する不満となって顕現してきたわけであるが、私の抱えるこのメンヘラ要素の理不尽な点は、片方には不満がないのにもう片方には不満があるという状況を、不満がある側が作り出しているという点にある。(厳密には相手の抱えている不満というのは認識しづらいものであるから、彼女からすれば私の知らないその不満に上乗せされる形でこのような理不尽を押し付けられると考えるとさらに気持ちの悪い話である。)たしかに彼女の幸せを願うことは大事だ。だが、自身を大切に思うこともそれと同じくらい大切なのかもしれない。そもそも、恋人という関係性はなにも1人で成り立つものではない。私と、相手とで構成する関係である。ゆえに、双方が健全に幸福であることが大前提として存在しているということを頭の片隅に置いておく必要がある。この時、私の幸福を満たす方法の方針として、最も効果的なものが一つある。それは、何も求めないことだ。私が不満を抱いた大元の原因は、「愛されたい」という見返りを求めて、多くの行動を相応のエネルギーを払って行ってきたということにある。言ってしまえば「幸福の前借り」で動いていたとも言える。それほどに私のここ最近の行動力には目を見張るものがあったし、実際彼女も驚いていた。もとい、引いていたかもしれない。大いに反省すべきだ……。話は戻り、前借りした幸福自体はそこまで問題ではない。それは、それがある分量の幸福をもってして完済される「際限のある」ものだからである。恐ろしいのは、脳がこの「課題と報酬の関係性」を学習してしまうという点と、以下に述べるような「幸福の相対性」にある。私は彼女との関係について大層幸せに感じている。かなり。ただ、幸福というのはその基準があって、継続的な幸福の摂取はそのスタンダードを引き上げてしまう。そして、私の脳内では、彼女との関係性について「エネルギーや時間、費用などの代償を支払うような行為」と「幸福」が強く結びついてしまっている。代償を支払い続けて疲弊した精神の中、際限なく吊り上がっていく幸福のハードルを前にした私は、多少の彼女との感情の入れ違いに不満を募らせてしまったというわけだ。であるからして、彼女に何かを求めるという行為をやめ、相手が共に時間を共有してくれるというだけに満足することが、今の私には必要なのかもしれない。相手を尊重するとは、まさに相手の居場所を侵害しないということであり、何かを求め合うのではなくて、互いを許し合うというのが、人生を長く付き添う二人の理想的な関係性なのだろう。
“愛されたい”は醜悪か
では、愛されることを欲してはいけないのだろうか。結論から言えば、“愛されたい”は醜悪である。私のような人間はよく、相手が本当に自分のことを愛してくれているのか不安に思ってしまう傾向がある。ゆえに、自ら行う愛情表現は過度になりがちであるし、愛されるために手を尽くす上に多くの犠牲を払うこともいとわない。すべてはその見返りのために。しかし、愛されたいがために行う行為は、私の例がそうだったように、相手に対してプレッシャーとなったり関係性に亀裂を生む原因にさえなる。相手を責めるような行為などはもってのほかだ。それでも一定数のメンヘラは愛されたいと願って非合理な行為に走ることが多いがそれはなぜなのか。そもそもとして、恋人という関係は愛し合っていることが前提のはずだ。(この世の全ての「恋愛関係」にそれがあてはまるかと言えば、それは現代のこじれにこじれた現実問題が絡み合っているためそうとは言い切れないが、定義に従えばそのはずである。)彼らが愛されていることを実感できない理由の一つとして、彼らが余程愛に飢えているというものが考えられる。愛情表現の方法は多岐にわたるが、そこにどれだけの愛情が込められているかについてはそれぞれ異なる程度として受け取られることが多い。例えば、かわいいだとかかっこいいだとかの褒め言葉は比較的“軽め”な愛情表現と言えるだろうし、時間や労力、お金のかかるようなプレゼントやサプライズはより多分に愛されていると感じやすいだろう。私も含めた彼らの傾向として、愛情に不安を感じているために、不安を形成している要素と愛情表現の要素との差し引きをもって愛されているかの判断をしてしまっている場合が多い。ゆえに、そのプラスの要素が少ないと、よりその要素を引き出さんとして行動が激しくなってしまうのだ。褒め言葉たった一つになんて愛を感じられるわけがないと、そのような“重い”態度をとってしまうのは私も痛いほどわかる。だが、そのたった一つの言葉にも、相手の愛は確かに詰まっているのである。愛されていることをその大小の程度でもって勘定しているようでは、相手に負担を強いるその姿勢を“醜悪”という他に形容すべき言葉もないのである。
おわりに:愛を伝えたいだとか
私の論理に一つ抜けがあるとすれば、「恋人同士が愛し合っているならば、彼らが互いに愛し合っている実感がある」という命題が真ではないということである。それは先も述べたような、愛に対する捉え方の問題で相手の愛情表現を享受できていないという理由の他にも、相手が愛情を表現してくれないという場合が存在し得る。恋人とは互いに惹かれ合って相成る関係であるからして、やはり互いのパーソナルゾーンを侵害しないというだけでは、愛情がなくても成り立つというわけにはいかないと思われる。求め合うことなく互いを許し合った上で、愛を表し合い、それをちゃんと受け取る。健康的な朝には、それでなくとも、君の“愛してる”が聞きたくなるものなのだから。
